きぇ☆拒食症時代・・前半

中3の6月。体重26キロ。某大学病院の小児科へと入院。
かなり。命に危険性あり。NS(ナースステーション)の前の部屋。
ナースの1番目に届く個室に入れられる。
即。点滴&輸血(血小板の異常減少により。血液凝固作用が少なくなる。)
(放っておくと。もし転んだり。少しのケガでも、そこからの出血が止まらなくなり。命への危険性が大きい為。)
そして治療は。何より食べて体重を元に戻すコト・・・。
その当時の私は、水さえも飲みこむ事ができなくなっていた。
点滴は24時間ずっと。起きあがるのにも人の手を借りなくてはできない。
今までまったく食べれず。食べていなかったので。出された食事は。とてもすごく多い量に思えた・・・。食べる。
その、食べると言う行為。言葉さえ、私の頭の中から既に消えていた。
私は食べたかった。早く退院して。また思いっきり走りたい。
そう思い。毎食頑張って食べた。
始めの頃は。胃も縮小してしまってたので。少しずつしか食べれず。
何度にもわけて食べたりして。たべれる量がだんだん増えてきた。
そして。少し落ち着いた頃、大部屋への移動となる。
ここは小児科病棟。中3の私は病棟の誰よりも年上・・・。
お姉ちゃん♪お姉ちゃん♪と。小さい皆に可愛がられてた(^ー^。)
入院中に撮った写真は、今だ。どこかに沢山しまっている。
始めての写真は。大部屋に移った初日。同室の子に撮ろうと言われ。小学生や幼稚園児に囲まれて、夏だと言うのに1人厚着をしたガリガリの私が写っている。大部屋に移り少したつた頃には。胃の痛さを薬を飲んで紛らわしながら頑張り。私の食事はすっかり全部残さず食べれるようになった。
体重も右上がり。毎日着々と順調にふえた。
夏休みに入る頃。私は32キロくらいに回復。
退院の約束は。元の体重まで。後3キロ・・・
そんな時。ふとした事に。
私の体重はまた右下がりに減りだした。ヨウは食べる量が減ったから・・・
あんなに待ち焦がれてた退院を目前にして。なぜ?なぜって思うよね。
うん・・。私は家に帰りたくなかったんだと思う。
病院では。6人部屋で。毎日1日中誰かしら居てたから。。。
家に帰るのが怖かった・・・。
そしてまた拒食・・・。退院は遠ざかっていった・・・。
夏休みが過ぎた頃。院内学級へ転入。中学生はただ1人。教室では私と担任の先生2人だけ・・・成績はよくないが毎日通う。
教室では。お菓子を作ったり。パッチワークをしたりと。雑勉(?)の方
がはるかに多かッた(^ー^*)y
院内学級に行きだしてから。食べる事の大切さが前以上に薄れてしまッた。
秋になる頃にはまた。27キロに・・・
私は元陸上部。体力がつきだしてからは毎日。夕方のお散歩が日暇になっていた。細い体でも、根性と体力だけは自身あり。
毎日。13階建ての階段を地下2階から上がり降り・・・。
退院しても学校に行く体力だけは、つけたかったから。
そしてまた、陸上をしたかったから。。。
冬が来た・・・私は受験生。高校の話をDrとした。
私は、今度こそ早く退院したい。体重を増やしたい。そう願った。
私の希望した高校は。看護学と高校の勉強を一緒に平行していく高校。
幼い頃から看護婦さんになると決めていた。
入院してから。沢山の病の子に出会い。亡くなってしまった子の存在。
私はその。看護の学校を受験する事に決めた。
でも・・・脳なしのこの頭。その上入院中で勉強もろくにしていない。
定員オーバーのトコロ。受かることなんてない・・・
また。元通りになつてしまつた27キロの体・・・。
通える体力もないだろう。先生もDrも家族も皆が思っていただろう。
・・・・・はい。なぜか受かりました・・・。
脳無しで頑張ったカイあり☆
後々。母から聞かされたのだが・・・
Drいわく。後1キロでも体重が減れば死と言う事もありえる・・・
病院を離れ。電車と歩きで往復3時間以上かかる高校。
1人での行動の間にも何が起こるかわからない。
階段を上るのにも1歩1歩一苦労。教科書も普通校の倍の量。。。
それでも。お子さんを通わせるか・・・
親の取った採った決断は・・・あの子の命です。もし明日死のうが。
最後まで好きなように過ごさせてあげてください。。。。
私は退院し。晴れて高校1年生になった(^ー^。)y
私の中には、不安なんて文字は一言もなく。希望で満ちあふれていた。
制服も『頑張って太るからね』と。
27キロの細い体に。自分で選んだLサイズの制服・・・
ブカブカの制服。鎧のように重く感じる。かばんには入りきれない程の
教科書・・・。普通科用と看護科用の・・・。
そして私は、重い鎧と肩がはずれる程の荷物を持ち。
毎日。駅の階段を1歩1歩のぼり。
6時発の電車で通いだした。。。胸を躍らせて・・・。



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